ヴィーガンの人々が畜産業を批判するのはお門違い?

さて、このタイトル。

初めに断っておきますが、ヴィーガンや動物愛護団体を批判したくてこの記事を書くわけではありません。

これは、以前ヴィーガンの方と意見を交換していてふと思った、人間の家畜動物に対する認識についてのお話しです。個人的な考えを直接的な表現でもって書いています。気を悪くせずあくまで僕個人の意見として見てください。

ヴィーガンが畜産業を批判する理由

最初に、他の記事でも繰り返し書いてはいますが、ヴィーガンの方がなぜ動物愛護の立場に立って活動をしているのかをさらっと説明しておきます。

この話をするにあたってよく取り沙汰されるのが、YouTubeにもアップされている屠殺映像です。畜産業、特に「工場畜産」と呼ばれる大量の家畜を保有して食肉や乳製品、革製品などを生産している現場で、動物たちが「モノ」同様に虐待され殺されている現実があります。

この虐待や屠殺の映像を見て動物愛護の意識を抱くようになる方は多いようです。

さらに言うと、動物には人間と同じように赤い血が流れ、感情があります。そのため、虐待されたり殺されたりすることは動物にとって恐怖や苦痛でしかありません。しかも、人間の、「肉を食べたい、革製品を使用したい」というような一方的な欲望によって動物が搾取されています。だから人間の選択によって動物の搾取をやめ、動物が人間と同じように安らかで幸福に生きていけるようにするべきだ、というのがヴィーガンの主張です。

また、ヴィーガンは基本的に全ての動物の搾取に反対しているため、闘牛や捕鯨など、例え文化的伝統的に動物を殺生しているような場合にも批判の立場に立つことがほとんどです。

なぜヴィーガンの動物愛護がお門違いなのか

本題です。誤解があるかもしれませんが、僕もヴィーガンの主張には少なからず賛成ですし、利益本位の極みである工場畜産の在り方には反対しています。いつまでたってもなくならない密猟問題にも憤りを感じています。しかし、僕はヴィーガンの方が動物愛護を叫ぶことに少し違和感を感じていました。そこで気付いたのは、「動物」という言葉の二重性だったのです。

つまり、僕は「野生動物」と「家畜・ペット」の線引きに疑念を抱いています。結論から先に言うと、これら2種類を混合してこの問題を考えるのはナンセンスだと思っています。

ヴィーガンの方が論議に挙げる「動物」は、牛や豚、馬などの「家畜」がメインですが、家畜と野生動物がまったく異なる繁殖形態であることはあまり着目されていないように思います。

野生動物と家畜の線引きは?

牛や豚、鶏などの家畜動物は、そもそもが「人工繁殖」によって産まれ、人間に飼育されて加工・利用されています。ウシに関しては、野生動物だった原種はすでに絶滅しており、長い間家畜として人間とともに歴史を作ってきました。豚の原種はイノシシで、ご存知のように野生に生きる原種イノシシも健在ですが、家畜として人工繁殖されてる豚の方が圧倒的に個体数が多いです。

また、犬や猫などの人気のペット類も人工繁殖によって生まれており、もちろん野生動物として生きることは想定されていません。つまり、姿形は同じに見えても、家畜やペットは野生動物とは全然異なる存在なのです。

そういった人工的な動物は野生に戻っても生き延びることは難しく、エサを確保できなかったり他の野生動物に捕食されて結局命を落とします(例外的に家畜動物が安定的に野生化する例はありますが)。また、逆に家畜が野生に放たれることで元来の生態系を圧迫したり、病気を持ち込んで野生動物に危害が加わることもあります。

家畜と野生動物では「自然」の意味が違う?

僕は動物の「幸せ」について論議するのは嫌いですし、あまり意味がないと思っています。動物に感情があるとは言え、何を「幸せ」と感じるかは所詮人間の勝手な判断でしかないからです。なので、ここでは「自然であるかどうか」を基準に話を進めたいと思います。

野生動物の視点から見れば、もちろん人間に飼われるより野生で暮らすことの方が「自然」でしょう。個体数の減少から保護が必要な場合もありますが、それでも野生動物は自然の中で生きることが「自然」です。

しかし、そもそも人工繁殖で生まれて人間に飼育されるというサイクルの中にある家畜にとっての「自然」ってなんなのかな?と疑問に思います。

野生に帰っても不都合なことが多い家畜やペットにとって、もはや人間のもとで飼育されることが「自然」であり、その末に利用されることもまた「自然」と言える状況になっているのではないでしょうか。ヴィーガンや動物愛護団体は動物を殺すことが良くないと言いますが、ぶっちゃけ「殺すことで食品や製品に利用できるから人口繁殖させている」のが家畜の実態です。

家畜を殺さないならば家畜自体が消えてしまう

前述の言葉を言い換えれば、家畜は、殺生(利用)できないなら繁殖できない動物だとも言えます。つまり、家畜を殺生から守るということは家畜の繁殖目的をなくし、必然的にそれらの個体数減少を目指すことになるんです。

もう少し具体的に考えてみましょう。
現実的に言えば、畜産業者にとって加工・利用のために飼育している家畜を、お金にできないならば抱えておく利点は皆無です。畜産業者は誰もが自身の生活のために畜産を営んでいるからです。現在、世界中に50億頭もの家畜がいると言われています。ヴィーガンの言う通りに家畜を殺すことをやめると、一定期間にはさらに数が増加すると考えられます。そして、その家畜を養うのにさらに大量の飼料・穀物が必要になります。ただでさえ家畜用飼料の生産は地球環境を悪化させているのに、もしそうなればヴィーガンが主張している地球環境保全からは道が逸れてしまいます。

そして、動物を殺さないなら畜産業の食用肉や革製品の分野はなくなります。また、乳製品や羊毛の分野でも、動物の搾取という理由でそれらの生産ができないなら乳牛や羊の人工繁殖および飼育もストップするでしょう。そして、数年の間に家畜の数は大幅な減少を始めます。

「動物の搾取根絶のためなら数は減ってもいい」とヴィ―ガンの方が考えているかは分かりません。しかし、守るべき家畜の数が減っていくことに対してヴィーガンの方がどう主張するのかは気になるところです。畜産業者が手放す家畜も出てくると予想されますが、おそらくヴィーガンや動物愛護団体が引き取って飼育できるような数でもありません。家畜を飼育するためには大量のお金が必要ですが、ただ飼育するだけでは収入も入りません。さらに、前述のように、家畜は野生に帰しても捕食される可能性がありますし、もともとの生態系を野生化した家畜が崩してしまう懸念もあります。

家畜を殺生しない未来を想像すると、意外にも問題が立ちはだかっていることが分かると思います。

家畜を動物愛護の対象にするのは間違い?

正直に言って間違いではないです。

ヴィーガンの方が主張するように、畜産業界やペットの扱いにおいて人間の動物に対する意識には改善の余地があります。その代表とも言える大量効率生産を目的とした「工場畜産」の在り方にも僕は大反対です。家畜やペットに対して酷い扱いをする人を目にすると、その人の人間性を疑ってしまいますよね。なので、家畜やペットに直接関わる立場の人間は最大限の思いやりをもって、最期まで責任を持って飼育するという意識は絶対に必要だと思います。

ただし、殺生を一切やめてしまうと逆に不都合なことが多々あるという意見に変わりはありません。動物を尊重し、丁寧な扱いを徹底した上で、時々はお肉や乳製品なども感謝して頂けばいいと思います。

まとめ

僕は動物搾取の根絶の先にあるのは、ヴィーガンの方が目指すものとは少し違う世界だと思っています。この論争の解決のためには、動物を飼いならして家畜化し、その歴史を紡いできた家畜と人類の関係をもう一度見直す必要があります。

人間にとって家畜は生活を支えてくれる大切なものですし、家畜も人類がいなくてはここまで繁殖はしていません。しかし、現在は人間が利益に目がくらみ、「動物搾取」の側面が強くなりすぎているのは事実です。その抑制としての動物愛護の活動は、至極当然かつ意義深いものだと思っています。

工場畜産などにおける動物に対する倫理観を見直し、家畜やペットの飼育環境を改善することは必要だと思います。しかし、あくまで僕は飼育過程での「命を軽んじた虐待」を批判するのであり、「生業としての屠殺や加工」は全面否定はしません。

もし動物製品の市場が縮小して工場畜産がなくなるなら嬉しいですが、現実的にはむしろ家畜を守るという視点からも、ある程度は動物性の食品や製品を流通させておくのが一番いいと考えます。

いずれにしても、消費者である我々が大量消費の波にのまれず、しっかりと問題意識を持って生活していくことが重要です。

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